横須賀市ハンドボール協会の50周年を回顧して

T 横須賀市協会設立前後の状況・経緯 

横須賀市ハンドボール協会 
 副会長 西山逸成

 
昭和34年(1959)12月、横須賀市ハンドボール協会が大津高校に事務局を設置して発足して以降、50周年を迎えるに当たり、当時設立関係者の一人として回顧集に想い出を寄せました。横須賀市協会設立の背景の一つには、横須賀地域内におけるハンドボール競技の同好者が相集って本競技を普及・発展させたいとの願望によるものである。

1.昭和34年(1959)当時横須賀市内での活動状況
 「大津女子高校」は、昭和21年(1946)に創部(佐野大和・長谷栄子教諭)、その後、樽井栄子監督(東京女子体育大学卒)の指導下で県内・関東/東日本(昭和36〜39年)・全国大会等(昭和37/1962)ハンドボール界で活躍していた。その折に筆者が久里浜自衛隊に転属を機に、神奈川県協会理事長の若崎重富理事長の推薦により、大津女子高校の指導(〜昭和36年8月)をお手伝いした。
とくに大津女子高校の先駆的活動に貢献されたOG富永映子女史(27卒・東京湾)を始めとするOG同好会、富永映子・有賀信江(昭24卒)、亀崎喜久子(昭26卒)、寺木清子(昭27卒)、井上由利子(旧姓/田畑・昭33卒)・柴崎登志子(昭33卒)、榎本喜栄子(昭34卒)、上野由美子(旧姓/半澤・ 昭35卒)らの交誼は継続されており、横須賀市協会設立時には井上・柴崎常任理事として樽井理事長の補佐に務めた。
昭和33年〜35年頃

                       

2.また高校男子では、三浦学苑「三浦高校」が昭和22年(1947)に創部、県内で活躍を続けた。


3.そして、昭和30年8月には、久里浜陸上自衛隊にハンドボール同好者(自衛隊久里浜クラブ基幹)の転入による活動が始まり、併せて当時、久里浜駐屯地に在住の「防衛大学校チーム」(昭和31年1月に創部:関東学生リーグ加盟)との合同練習、それが契機で筆者が防衛大学の1期生以降57期生の今日まで、機会を得て部長・コーチ・監督等を務めている現況である。
 久里浜陸上自衛隊(通信学校体育科―朝霞/体育学校を想定)にハンドボール経験者が集った背景には久里浜通信学校の前身である陸上自衛隊幹部候補生学校体育科勤務の財部重彦氏(元横須賀市協会副会長)の配慮があった。
その一部に触れると、昭和27年(1952)以降、幹部候補生学校における体育授業で“ハンドボール”が採用されており、昭和29年4月(1954)に筆者が幹部候補生として入校した契機に「幹部候補生チーム」を創部、福岡県協会加盟・九州地区大会出場の活躍の場を醸成された。

 その幹部候補生チームのメンバーであった西山逸成・佐々木親彦そして久里浜通信学校創設時に宮下忠憲・片淵真樹男・藤原幸介・本田大三郎・小林達也らの各兄の加入があったればこその今日の横須賀市ハンドボール協会の姿だったのであろう。
その時点で、神奈川県ハンドボール協会理事長・若崎重富氏(日本協会審判部長)のご配慮と薦めもあり、神奈川県一般男子の中核として「自衛隊久里浜クラブ」が昭和31年(1956)に誕生、昭和33年第13回国民体育大会に監督/財部重彦、選手/西山逸成・佐々木親彦・佐藤恒・片淵真喜夫(久里浜自衛隊)、春日信人・横山松雄(防衛大学校)らが参加した。


4.防衛大学校の活躍の分野は昭和31年(1956)度設立以降、関東学生連盟での春・秋のリーグ戦、第13回国民体育大会に3名選抜参加、神奈川県国際大会(昭和35年/1940)に2名参加、全自衛隊大会に優勝(昭和43/44年度)、インカレ出場(昭和47年度/1972)等々で、現在、関東大学リーグ4部で活躍中。
 歴代の部長・監督・コーチのスタッフには、横須賀市ハンドボール協会スタッフの財部重彦・細谷悦也・西山逸成・松尾邦寛・木村政弘・松元藤彦、他OB各位が指導にあたった。
 さらに「防衛大学校チーム」の活躍経緯は創部以降、関東学生連盟での春・秋のリーグ戦、昭和32年度全日本室内選手権(大阪)に参加、昭和34年度は1部リーグで活躍。昭和35年(1960)には、ルーマニアチームの来日を機に、神奈川国際大会(昭和35年/1960)に2名(小袋正次郎・山口GK)参加、草創期の全自衛隊大会には、横山松雄部長の指導下で優勝(昭和43/44年度)している。
また2部1位の枠でインカレ出場(昭和47年度/1972)、1回戦で日本体育大学と対戦、等々で現在、関東大学リーグ4部で3部昇格目途に懸命に活躍中である。



5.昭和35年6月神奈川県春季ハンドボール大会(久里浜駐屯地)で自衛隊生徒(久里浜)「少年工科学校」が初参加で高校分野で3位入賞し、爾来、神奈川県・横須賀市の高校大会で活躍している。
 以上のように横須賀市地域内での大津女子高校・三浦高校・自衛隊久里浜クラブ・防衛大学校チーム・少年工科学校チームの活発なハンドボール活動が、横須賀市ハンドボール協会設立への導火線となったのであろう。

昭和50年当時 少年工科科学校グランド(生徒20期)

                                  

6.全自衛隊連盟活動との関係では、昭和37年3月には、朝霞自衛隊クラブ・久里浜自衛隊・下総海上自衛隊・勝田施設学校等で草創期の全自衛隊ハンドボール連盟設立、東京オリンピック大会以前、自衛隊体育学校の森川竹雄校長が理事長となり西山逸成(陸自)・池上貞夫(海自)等で設立にあたり、日本ハンドボール協会審判部長/若崎重富氏(当時、西山は日本協会審判・規則委員)の指導下で自衛隊にハンドボール競技の普及・振興策更には自衛隊連盟の設立と全日本実業団連盟えの加盟そして自衛隊体育学校特別体育課程に“ハンドボール種目”の採用等々の実現えのお手伝いの1員であった。
  昭和43・44(1969)年の第1回全自大会会場は関東自衛隊体育学校と防衛大学校で行われ、防衛大学校が優勝した。それ以降は、連盟組織が勝田施設学校に移り、自衛隊大会優勝チームが全日本実業団選手権大会への出場権を得る。という構図になり、更に全自衛隊連盟が改組され、日本ハンドボール協会傘下でない独自の組織として運営されている。

主要な競技歴は以下の通りである。
  平成 2年(1990)10月第 1回(朝霞)久里浜自衛隊「準優勝」
  平成 4年(1992) 9月第 3回(朝霞)少工校「優勝」
  平成 5年(1993)11月第 4回(朝霞)久里浜自衛隊「初優勝」
  平成 7年(1995) 2月第 5回(朝霞)久里浜自衛隊「優勝」(2度目)。
  平成 7年(1995) 9月第 6回(朝霞)久里浜自衛隊「準優勝」、少工校「優勝」、防衛大 学校「ベスト8」の健闘。
  平成 8年(1996)11月第 7回(朝霞)久里浜自衛隊「優勝」(3度目)。
  平成11年(1999) 9月第10回(朝霞)久里浜自衛隊「優勝」(4度目)。
   *全自衛隊連盟から永年功績に対する表彰/受賞
  平成12年(2000)11月第11回全自衛隊大会で久里浜自衛隊が優勝(5度目)。
  平成13年(2001) 9月第12回全自衛隊大会で久里浜自衛隊が優勝(6度目)。
  平成14年(2002) 9月第13回全自衛隊大会で久里浜自衛隊が優勝(7度目)。
  平成15年(2003) 9月第14回全自衛隊大会で久里浜自衛隊が優勝(8度目)。

昭和55年 駒沢体育館 平成7年 朝霞体育学校



7.日本ハンドボール界への寄与
  横須賀市ハンドボール協会が昭和31年以降、斯界との連携下で今日の景況の背景には、当協会と日本ハンドボール界との濃い連携があったればこその現況である。
 即ち、JHA公認レフリーとしてA級3名、C級1名による協会内各層への審判技術の講習、さらには西山がたとえ国際連盟の医事委員・アジア医事委員会委員長の立場を13年間の長期の担当とはいえど、アンチドーピング活動として避けて通れない「ドーピング検査」に当協会から例年の日本リーグのプレーオフにおける検査に菅野理事長・白坂副理事長(A級ペアー)の派遣支援のあること。
さらには本協会加盟の選手たちの競技力向上の一環としてのオリンピック候補選手たちの招待事業も協会所属チームの好刺激となっているはずであろう。




U.創設、そしてとんとん拍子の活躍

大津高校(昭和27年卒)
  富永 映子

 横須賀大津高等学校のハンドボール部は、戦後間もない昭和22年(1947年)部活動の中で女子送球部として創設され、横須賀のハンドボール普及の先がけとなりますが、当時のハンドボールは球技としての知名度も低く、11人制のアウトドアのスポーツで練習は現在のようにトレーニングマニュアル等ありませんでしたから、走ることが主体でその厳しい忍耐力が要求される事から入部する部員は少なくチームとして試合に参加できる部員数で活動を始めました。
創設から2年後の昭和24年(1949年)樽井(長谷川)栄子・佐野大和両教諭の熱心なご指導と、部員の意気込みにより県下高等学校大会に優勝、県代表として関東高等学校大会に出場、翌年の昭和25年、県下春季高等学校大会の優勝と関東高等学校大会に優勝、昭和26年秋、国民体育大会県予選に優勝、国民体育大会関東ブロック大会に県代表として出場、昭和27年、県下春季高等学校大会に優勝、関東大会、東日本選手権大会に県代表として出場、同年秋の国民体育大会関東ブロック大会に県代表としても出場する等の成績を収め、その後のハンドボール部発展の基礎を築くことができた創設期であったと思います。それにも増してハンドボール選手とし切磋琢磨して得た心身の豊かさは現在も各部員の宝となり残すことが出来ました。
 そして、今回横須賀市ハンドボール協会創立50周年に当たり心からお祝い申し上げさせて頂きます。又これまでハンドボールの発展にご尽力された方々に深く感謝いたします。

ハンドボール部のメンバーと佐野大和・長谷川栄子教論(昭和24年頃)



V.ハンドボールと私

大津高校(昭和33年卒)
   井上 由利子
 
 設立50周年、誠におめでとうございます。
 協会の設立当時、私はまだ学生でしたので設立準備に直接タッチしたことはありませんが、大津高の樽井先生や西山コーチが奔走されていたのはしっかりと記憶に残っています。
  これを期に古いアルバムのページを繰ると、お世話になった今は亡き樽井先生、熱心にご指導くださった西山コーチ、チームメート、先輩方、後輩たちが次々ととびだしてきて当時のことが一度に思い出されてきました。
 私がハンドボールと出会ったのは高校一年生の時でした。まだまだマイナースポーツだったハンドボールはなかなか部員が集まらず、スカウトされたのですが、丈夫そうな体格の持ち主だったことが評価されたようでした。まだ11人制の時代で広いコートをただただ走るだけでした。
 2年生になった時、樽井先生がコーチに西山先生を迎えてくださり、今までの練習に対する考え方が大きく変わりました。フィジカル面の強化は勿論、個人技の向上、フォーメーションの意識化等々、密度の濃い練習メニューでした。
 「泣け、そして笑いを持て!」をスローガンに、「デルト.マーケル会」から「マーケルモン会」への変身を図ったのです。顔面にふきだした汗が乾いて塩の結晶となってほっぺにこびりついたり、「頭を冷やせ」とバケツに入った水を頭からかけられたり・・・泣くことばかりでなかなか「笑い」はやってきませんでした。
 3年生になった時、大きなルール改正で7人制になったのです。これが大きな転機になりました。大急ぎで間に合わせに作つてもらった木製のゴールポストが届いたとき、なんだかとっても嬉しくて授業が終わるのを持ちかねてグランドにとびだしていったことを覚えています。そして、春の東神対抗戦。初めて勝つことができたのです。勝つことのすばらしさを実感することができたのです。
 この年の夏、いよいよ関東大会。足利での大会でした。なんと準々決勝まで勝ち進むんだのです。その時の場内アナウンスで「そのスマートでスピーディなボールさばき、ダークホース的存在の大津高」と紹介されたのです。このときばかりは威風堂々の凱旋でした。しかし、「笑い」はまだやってきません。宿敵、平塚江南には相変わらず苦杯をなめていたからです。
 その2年後、OG戦でしたが平塚江南に勝利することができました。この年から3年間、全神奈川(大津と江南のOGで結成)として国体地区予選に出場することになりました。伊勢湾台風下での試合は今でも鮮明に覚えています。そして、少し「笑える」ようになったのもこの頃のことでした。
 北京オリンピック前はテレビでゲームを何度か見ましたが、そのスピードと迫力に圧倒されながら、「今だ。そこ走れ、シュートだ!」と叫んでいる自分に思わず苦笑してしまいました。
 ハンドボールとの付き合いは12〜13年でしたが、グランドをはなれた今も先輩方や後輩との絆が脈々と続いているのもハンドボールのおかげと深く感謝しています。
 最後になりましたが、貴協会の益々のご発展を心より祈念しております。

「樽井先生を囲む会」 昭和59年6月16日